本日の日本記者クラブの羽生選手を見た方いらっしゃいますか?23歳とは思えない受け答えでしたね。内容も記者の質問を超える高度な答え。哲学者のような、私たちとは次元の違う意識で答えていたように感じてしまいました。
特に、記者が「今後、難しいジャンプを跳べば跳ぶほど、プログラム全体の芸術性が失われていくのでは?」という質問に対して、「もし、羽生結弦が4回転半、5回転を入れた場合は、それを確実に表現の一部にします。僕のスタイルは、そこ。僕がフィギュアスケートをやっている理由はそういうところにほれ込んだから。難易度と芸術のバランスは、本当は無いんじゃないかなと思います。芸術は、絶対的な技術に基づいたものであると僕は思っています。」と。
多分、記者は技術点と芸術点は相いれないものという前提で質問したにも変わらず、彼は表裏一体のものであると答えていたのです。
この答えを聞いていた私は、頂上を見た人は私のような一般人と違うと感じてしまいました。てっぺんを見たからこそ出てきた答えの様に感じたのです。60歳近い私から見ても彼は魂が高い次元に行かれている様にさえ感じたのです。
この答えた中で「技術」というワード聞いていて、ふと「人は何のために知識を得ているんだろう」と頭の中で問いが生まれてしまいました。
子供の頃から知識を覚え、試験という手段を繰り返し、有名な中学校、高校、大学を目指す今の社会。そして、ひとつのゴールである大学に受かり、卒業し就職していく今の社会。知識は覚えたものの、使われずに忘れ去られていく知識。全ての人ではないものの、多くの日本人がそんな人生を歩んでいる様に思えます。
知識がある人が偉いのか、知識が無い人が下衆なのか。別に知識のあるなしでは評価できない軸もあるはずなのに、忘れてしまうだろう知識偏重の考え方に疑問を感じてしまうのです。
次に「芸術」という言葉から「感性は人々を幸せにするのだろうか?」という疑問符も浮かんできてしまいました。感性は大事と多くの場で言われ始めているのですが、身勝手な感性は人々を笑顔に出来ないのです。「自分はこう思うからこうする!」とか「人には理解できないよ、私の感性は!」など感性という言葉を使えばオリジナルな世界をアピールできるとばかりの表現者。
私は、知識も感性も合わさった先に人々の幸せが創られると思うのです。
つまり、羽生選出が語った「技術と芸術は表裏一体。芸術は、絶対的な技術に基づいたもの」という言葉と同じように「感性と知識は表裏一体。感性は、絶対的な知識に基づいたもの」であるべきものなのです。そして、その結果が多くの人々の暮らしを豊かにし幸せな笑顔を創れるものであるはずです。
ですから、学ぶ意味、目的を改めて組み直し、感性と知識の融合を目指すことが重要な生きるテーマになって欲しいと願っています。
23歳にして、大人たちの次元の上を行く答えを紡げる羽生選手。だからこそ、フィギュアスケートの神様が金メダルというご褒美をくれたのかもしれません。