今私の母校の名が世間を騒がしています。その騒がしている加害者側の学生が今日、正々堂々と顔を出し名前を出し、大人達の前で、カメラの前でこれまでの経緯や自分の心情を淡々と述べていました。その姿を見ていると、勇気ある謝罪会見であったと感じると同時に、学生組織とはいえ日本の古びた組織の一端を垣間見え胸が苦しくなってしまった自分がいました。
日大は昔ほどではないものの、アメフトやゴルフが強い大学です。その強いと言われる組織には昔ながらの縦社会が存在していたのではないでしょうか。学生の言葉をそのまま読み解くならば、監督は神でコーチはその弟子。神とその弟子の言葉には絶対服従という上意下達の社会が存在していたのではないだろうかと感じます。
この上意下達は、確かに私の学生時代にもありました。あったと言うより全盛期のまっただ中だったと思います。私もその中で少しの間でしたが、白を黒として行動していた時代があったのです。
ただ、今回彼はそれを「自分の弱さ」と表現しました。
その言葉に大人になった今、胸が苦しくなる思いで聞いている自分がいたのです。
学生スポーツは結果が重要なのか、その過程が重要なのか、意見が分かれるところだと思います。しかし、伝統校や常勝校は勝利という結果を期待されます。また、プロの世界になればよりシビアに結果を求められていきます。
では、仮に勝利という結果を求める場合、その手法はどのようにすれば良いのでしょう?
これは、企業の組織論、指導論、人材育成論等にも全て共通していきます。企業は特に結果がでないものは全て排除されてきました。なぜなら、結果は即企業の衰退に直結するからです。
戦後の日本社会は、軍隊式という上意下達が常識的であり、その手法によって結果が出ていた為に、その指導を受けた側も大人になればその手法を活用していくという連鎖を繰り返してきたのです。
ただ、最近になってその手法は「〇〇ハラスメント」という名の浄化手法によって一時期の社会的な体質から抜け出ようとしていると私には感じますが・・・。
では、学生やプロのスポーツ界は今どのように変化しているのでしょうか?
野球、サッカー等を見る限り、指導方法に変化が起きていると感じてはいます。感じてはいるものの、今回の日大の監督、コーチを指導方法「精神的に追い込み、強くする」という手法は、私が学生の頃の旧態依然としか感じる事が出来ません。
なぜ、監督は「精神的に追い込む」手法を行ったのでしょうか?
会見では「おまえは優しいからダメなんだ」という理由が語られました。
とうことは、強くなるには優しさは不要であると監督は考えていると感じてしまいます。本当にそうなのでしょうか?
私には「優しさの観点」が間違っていると思えます。
優しさは応援する観衆の心と共有する力を有していると思うのです。その応援する心に答える為に普段出ない力を出す強さを持っていると思えるのです。
その周りからの期待に対して、創意工夫という力を導き出せると思うのです。
その共有し生まれた創意工夫するという優しさは、主体的に考え、行動し、潜在的な力を引き出すことに繋がります。
優しさは武器です。その優しさという武器を理解せず、人格を否定し、精神を追い込み力を出させるなんて、旧日本軍が特攻を創り出した悪の手法としか私には思えません。
社会は人が創り出します。その人の心が社会の常識を創り出して行きます。
戦後70年、やっとここまで人間の営みがまともに進化してきたのですから、スポーツの指導者も意識の進化をして欲しいと期待しています。
そして、今回のケースは企業組織の指導者も他人事と思わず反面教師にし、戦後70年進化してきた日本社会の一員として人や組織を育てて欲しいと願っています。